日本住宅の歴史と現代の住宅     

午餐会 201243 久保田 耕平

 

I.日本住宅の歴史              

☆先史時代

竪穴住居:縄文時代から少数ながら江戸時代初期まで存在した住居形式

     平面の形式;方形平面、円形平面 

     規模と生活者数の推定式(関野克氏による):n=A/3−1

平地住居:縄文時代後期から現れた地表を床面としている住居形式 

     水稲農耕の影響、登呂遺跡の住居跡は平地住居

     床の発生;日本住宅の床は、土間と共存できる高さ

高床住居:弥生時代にあらわれた住居形式

     屋根は、通常草葺、切妻造り、雁木梯子で上がる

     共同体首長層の住居、住居形式の主流にはならなかった 

     古墳時代の宮殿や神社の祖形

☆古代

竪穴住居から寝殿へ

     閉ざされた寝る空間の前に屋根のかかった開かれた昼間の空間の出現

     寝殿平面の原型:寝殿や対屋の核となる母屋部分

夜御殿(よのおとど)** 閉ざされた部分、塗籠(ぬりごめ)、寝所

昼御座(ひのござ)**** 閉ざされていない、昼間の生活スペース 

寝殿造の原型:正倉院文書の平城京外にあった大宅朝臣船人の住宅

     宮殿:平城京の内裏 ** 正殿と4棟の付属小建物

     宮殿:平安京の内裏 ** 中央南北軸に正殿、4棟の付属棟は繋がり南庭を囲む 

寝殿造の基本型(池庭の成立と寝殿造の崩壊)

     寝殿造:平安時代に完成された天皇・貴族の住居形式

     寝殿と対屋、渡廊と二棟廊、釣殿、中門(四脚門)、中門廊、

     内裏における天皇の通路は、紫宸殿の南階・正面の承明門を結ぶ中軸線上

     屋敷の南に池庭のある南門の消滅した形を寝殿造の標準型とするべき


 

☆中世

小御所の成立(小寝殿から小御所へ)

     平安時代の後期の貴族住宅に、寝殿、対屋の他に小寝殿が現れる

寝殿  : 主人夫婦の生活の場

対屋  : 娘夫婦の生活の場

小寝殿 : 寝殿に準ずる機能、又は、寝殿生活者に準ずる人の生活の場

小御所 : 東宮の御所、息子夫婦の生活の場

     結婚の形態が妻問いかあるいは婿取りの形式、から嫁入りの形式に

 

中門廊から中門へ

     中門:廊としての機能を失い、出入口の機能を残す  

寝殿の変貌

     公家住宅に対して武家住宅では、対面の機能が重要な役割

     母屋から塗籠の消滅:母屋が居住の場で無くなった

対面の場の成立

     正長2年(1429年)後小松院の仙洞会所に、六間と十五間の板敷の部屋

主殿の成立

     主殿:室町時代、武家屋敷の主屋の一般的呼称、南半部を対面・接客の場に

     主殿の特徴:出入口としての中門、対面の主屋を飾る座敷飾

主殿造の構成

     遠侍・主殿・台所・対屋・厩等により構成、会所・常御所が主殿から独立


 

☆近世

対面の場の発展

     主客の軸は庭に平行になり、庭に面して上・中・下段が並ぶ

(中世は主となる人物は庭に向かい、対面の間を庭の側へ拡大)

座敷飾の定型(例えば、二条城の大広間)

     座敷飾:床、違棚、付書院、帳台構

     16世紀後半、座敷飾の定型(床を中心とした)が成立

     慶長初年(1600年頃)の近衛殿の寝殿:定型の四つの組合せの座敷飾の指図 

     上段、中段、下段:床の段差が対面の場での格式を表す

対面の場の拡大

     対面、接客の場は、1棟から2棟・3棟へと発展して行った

     前田邸への将軍御成:広間、書院、数寄屋(1617年)

     前田邸への二条右大臣来邸:玄関、大書院、小書院(1712年)

主殿から書院へ

     大広間―小広間、広間―書院 から 書院―小書院、大書院―小書院 へ

     接客、対面用の部屋の並び:L字型、1列に二、三室

私的空間の確立

     主人の日常寝起きする御殿(常御所、御座間、居間)が建てられる

玄関の成立

     主人の出入口:玄関、(他に、中玄関、南溜御駕籠台、御成廊下御駕籠台、等)

     家老、家人、使用人、商人:格式、働く場所によりそれぞれの出入り口

(戦前の都市住宅の、表玄関、内玄関、勝手口は、名残り)

     玄関:式台(取次の為の板敷)、床を設けて送迎の場となった建物全体

 

書院の意匠

     金地極彩色の障壁画、二重折上格天井(二条城二の丸御殿)

数寄屋風の意匠

     数寄屋:草庵茶室の手法を取り入れた建築、主として住宅

視覚的要素だけを追っているので、様式とはなりえない

面皮柱、丸柱、煤・紅殻で着色、土壁、砂壁、壁に唐紙

(現代に生きている和風住宅の基本となっている)


 

☆現代

サラリーマン住宅の成立

     大多数の給与生活者は、武家の書院造の住宅をそのまま受け継いだ

     座敷は、客間:最も広く、最も良い位置に

     洋風応接間:明治30年頃から、洋服の普及と関連

中流住宅の変革(脚光を浴びた茶の間)

     プライバシーおよび主婦労働の軽減の問題

     客間よりも、茶の間が南側の条件の良い位置を占めるようになる

居間中心型住宅の成立(住宅改良と洋風化)

     居間中心型住宅(設計小沢慎太郎)(1922年)

プライバシー

     部屋と部屋との間が壁で仕切られ、夫々の部屋が独立

     中廊下:家族と使用人の領域を分ける

2次大戦と最小限住宅

     近代住宅:居間(和風では茶の間)を中心に、夫々専用の個室を取る形

     戸山ハイツ(1949年):規模は戦時規格(8.0~14.8坪)

     住宅金融公庫(1950年):建築費、土地購入費の融資。対象(9~26坪)

     公団住宅4DK1961年):畳敷の3寝室、板敷の居間、板敷のDK

個人の尊重と住宅の崩壊

     子供部屋、遠距離通勤、単身赴任、夫婦共働き、マイホーム主義

     住宅の核となる、マルティユース的性格の新しい居間の創造が課題

 

むすび

     ハレ(晴)<正式、公式、儀礼的> と ケ(褻)<略式、日常的、私的>

     人間の行為の区分:公的と私的に区分、(私的には、内向と表向)

 

【参考文献】

 「日本住宅の歴史」          日本放送出版協会発行  平井 聖著 

 「図説日本住宅の歴史」        学芸出版社発行     平井 聖著  

 「建築大辞典」            彰国社発行


II. 現代の住宅
@     上賀茂の家(1981)傾斜地に建つ住宅

A     新檜尾台の家(1982)和室にトップライトを設けた住宅

B     高鷲の家(1982)スキップフロアーの、S造の住宅 <店舗併用住宅>

C     玉造の家(1984RC4階建、油圧エレベータのある家 <店舗併用住宅> 

D     相楽台の家(1989RC2階建 <医院併用住宅>

E     仰木の里の家(1991)混構造の住宅(RC造と木造) 

F     千町の家(1992)木造3階建、2×4の住宅

G     玉串元町の家(1993)接客空間を重視した、S造の住宅 <本社ビル併用住宅>

H     冨小路の家(1996)京町家にビルトインガレージの住宅


I     若葉台の家(2005)リビングを2階に設ける住宅


【久保田耕平略歴】 昭和43.3  東京工業大学 理工学部 建築学科卒業

昭和43.4  浦辺建築事務所 入所

昭和55.6  久保田建築設計室開設 現在に至る

<資  格> 登録建築家・一級建築士

<所属団体> 社団法人 日本建築家協会

<業務経歴> *              浦辺建築事務所 在職中の主な設計業務

曽根崎警察署新築工事

千里阪急ホテル新築工事

日航成田ホテル新築工事

西鉄グランドホテル増築工事

              久保田建築設計室としての主な設計業務

日野町A医院新築工事

()MIC本社屋及び迎賓施設新築工事

()ベルディア本社ビル新築工事

木津川市S医院新築工事

枚方市S医院新築工事

千種の家新築工事 

 

【久保田耕平の建築】 その建築は、演劇の舞台のように晴れがましい一面があっても、

基本的には、水や空気のように自然であり、

機能を充分満たしていることが重要。

その建築は、その町の顔であって欲しいが、

けっして遊離したものであってはならない。

街並みに調和していることが肝要。