平成21714日午餐会

岩田義弘氏 講演概要

情報源:

佐藤 優 が2006年7月に小学館から出版した 『日米開戦の真実 大川 周明著 「米英東亜侵略史」を読み解く 』を、講師が読まれたものを下記の如く纏め、午餐会で話された。
そもそも、佐藤 優 が読み解いた「米英東亜侵略史」は大川周明”が戦前(昭和16年12月)ラジオで行った放送を、後に「速記禄」として出版されたものである。
(注: Google 検索で、 ”大川 周明” 及び ”佐藤 優”-をそれぞれWikipedia で参照下さい!)

放送内容は第1部 〜 第4部に及ぶ膨大なもの。 その中から、

☆「第一部」:昭和161214 1219日に掛けて放送、
「第三部」:昭和161220 25日に掛けて放送

内、「第1部:米国の東亜侵略史」を本日、後日(2010年の前半に)「第三部:英国の東亜侵略史」に分けて

それぞれお話頂く。


第一部 米国の東亜侵略史

放送第一日 ペリーの来朝(昭和161214日)

ワシントン大統領の精神が指導者階級を支配していた時代

A.日米戦争の真個の意味

大正14年「アジア・欧羅巴・日本」なる小著書上梓

目的

第一 戦争の世界史的意義の闡明化

当時日本に跋扈していた平和論者への反省を求める。

第二 言葉の真個の意味における世界史とは

東西両洋の対立・抗争・統一の歴史にほかならぬ。

第三 世界史を経緯し来たれる東洋並びに西洋の文化的特徴

第四 全アジア主義に理論的根拠の付与

第五 新しい世界の実現のため東西戦の不可避的運命

此れは日本の荘厳なる使命

B.ペリー艦隊来る

1778年(安永7年)ロシア船蝦夷地に来たり、通商を求む。

オランダ人が英・米・露が開港を迫っている旨注進

1853年(嘉永6年陰暦63日)

ペリーのアメリカ艦隊が浦賀湾に乗り込む。

アメリカの国書を奉呈し、和親条約を求む。

C.江戸幕府の周章狼狽

69日国書受け取り・返事は来年

横浜で談判・下田・函館の二港を開港

D.ペリーはなかなか立派な人物

1858年帰国・直ちに詳細報告

「日本遠征記」と改題し岩波文庫に4巻所収

寄航時・欧羅巴諸国の殖民政策を研究

非人道的なる点を指摘・手厳しい非難

来日前、日本・支那の事情を研究

高尚な国民・礼儀を守り、対等の国民として交渉

 


放送第二日 シュワード政策(昭和161215日)

領土拡張・国力充実・帝国主義化へ

A.アメリカが日本に着目した理由

特に18世紀前半のアメリカは、急速な領土拡張時代

1803年ナポレオンと交渉・フランスよりルイジアナを購入

1819年スペインよりフロリダを購入

1846年対メキシコ戦争により、ニューメキシコ・カルフォルニア等獲得

1867年アラスカをロシアから720万ドルで購入

1898年、米西戦争の結果、フィリピン・グアム島・プエルトリコを領有

大西洋系由アメリカ商船数の著増時代

アメリカ造船業の黄金時代

1861年の統計

アメリカ商船の総トン数:554万トン

英国         :590万トン

その他        :580万トン

カルフォルニアに金山発見・支那労働者の米国渡航

米国商品の対支輸出盛況化

捕鯨船の北太平洋への転換(1840年代捕鯨船:1200隻)

北太平洋航路開設の急務

1850年米議会は日本訪問を議決

第一 アメリカ人の生命財産を保護するための和親条約締結

第二 アメリカ船舶が燃料食料確保のために入港し得る港選定

第三 通商貿易のために二、三の港の開港

B.日本の膨張はアメリカを脅威せず

日米修好条約締結はハリス・下田に総領事として赴任

当時の大統領ブキャナン(第15代・1857〜1861年)

1857年5月対支那使節・ウイリアム・ピットに与えた教書

我が同胞の通商と生命財産の保護以外追及せざることを銘記せよ。

長髪賊の乱に傍観的態度のこと

ペリーが提案した琉球占領計画の却下

宣教師パルケルが画策した「台湾を米国の保護領」化を黙殺

時の国務長官・シュワードは、太平洋の将来性に着目

此れを歴史家は「シード時代」、「シュワード政策」と呼ぶ。

然し、1898年のフィリピン占領に至るまで実行されず。

金融資本主義表れず、帝国主義の確立以前

1867年アラスカ買収時、国民は反対

京城へのアメリカ勢力扶植案を強く窘める。

日清戦争(1894〜1894年)時も好意的中立。

此の日清戦争は東亜政治史全体の大転換点。

封建国家支那の無力と解体を露呈・丁度、時代は帝国主義化へ

 

C.「門戸開放」提唱の経緯

1880年代にアメリカの帝国主義化とシュワード政策は相結びだす。

セオドア・ルーズベルト(第26代大統領、共和党、1901〜1909年)

が最初の実行者(1898年の米西戦争)

ウイリアム・マッキンリー(第25代大統領、共和党、1896〜1901年)は当初、フィリッピン侵略を犯罪的侵略と看做していた。

海軍長官ルーズベルトが献策・推進、退官し義勇軍に

日本政府は、米国のフィリピン併合に賛意を呈する。

英国の香港の如く、フィリピンに拠り、東亜問題に容喙する実力養成。

国務長官ジョン・ヘイ名にて、1899年支那の「門戸開放」を提唱、

1900年支那の「領土保全」を提唱。

先進欧羅巴に立ち遅れ、少ない自国の帝国主義的権益を擁護するため。


放送第三日 鉄道王ハリマン(昭和16年12月16日)

本格的に太平洋に進出

A.太平洋を世界政局の中心たらしめるもの

アメリカの将来は、支那と相対する太平洋上の地位による。

(セオドア・ルーズベルトの手紙)

昭和初年毎年一人当たり日本は三十八円の外国品購入

支那は 三円七十銭・人口4億人

支那で鉄道を敷設すれば、開通翌日から、容易に荷物・旅客確保。

B.ハリマンの「満鉄買収策」

すべての攻撃・進出は、常に抵抗力の最も薄弱と思われる方向に。

日露戦争により国力を弱めていた日本の勢力圏・満蒙が進出目標化

(日露戦争:1904年2月〜1905年5月)

(ポーツマス条約:1905年9月締結)

日露両国の講和談判進行中に、アメリカの鉄道王来日

10月20日付け南満州鉄道買収交渉成立(桂首相と)

覚書を懐に、横浜からその日のうちに帰米

3日後に、条約を締結させて小村全権帰朝・敢然と反対・解約さす。

鉄道と航路による世界一周連絡路計画の一環

C.日本が東亜進出の障害に

ハリマンの計画失敗以降、ルーズベルトの態度は次第に変化

日本がアメリカの東洋進出の障害になると考え始める。

東亜発展は日本にとって死活存亡問題・従ってロシアと死闘

アメリカの東洋進出は金持ちが更なる欲望を満たすもの。

横車の第一:1906年東京駐在代理公使をして提言

第二:1907年奉天の総領事ストレートが鉄道敷設権割り込みの画策(ボーリング商会対支密約・満鉄と並走)。

横車の第二は、小村全権が結んだ満州善後条約を盾に支那に取り消させた。

D.応諾させられた満州の門戸開放

1908年ストレートは支那当局者と満州銀行設立の約束を結ぶ。

政界の実力者・袁世凱は日本の満州における発展を掣肘する方針に転化

満州における鉄道の敷設並びに産業の開発を主目的に

2千万ドル借款仮契約

袁世凱失脚・醇新王が執政となり計画は失敗に終わる。

1908年11月・駐米日本大使高平小五郎を通じ、満州の門戸開放・機会均等の主義を応諾させられる。


放送第四日 アメリカ人の気性と流儀(昭和16年12月17日)

アメリカの横暴より露骨に

A.米国務長官の驚くべき提案

190910月・鉄道敷設権を獲得(渤海湾金州〜黒龍江省愛琿)

11月国務長官ノックスは英外相グレーに提案

第一:英米一体で、満州の全鉄道を完全に中立化させる

第二:上が不可能な場合、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満州の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引する。

英外相は拒否

12月4日上記二案を日・支・仏・独・露の各国政府に示す。

英国政府の原則的賛成を得た。「同様に好意ある考慮」を求める。

日露両国は強硬な反対・仏・独・英も支持せず。

ストレートが暗躍

1908年成立英米独仏四カ国による対支一千万ポンド借款団の利用

支那の幣制改革及び満州の産業改革の相談開始

武漢に革命の火の手が挙がり、清朝は倒壊・交渉中絶

新設立・民国政府は四カ国財団に、戦費の借款申し込み

1913年6月日露両国を加えた六カ国財団を設立

日露両国は各自の特殊権益が損傷されぬことを条件とした。

1914年米国は支那の行政的独立を危うくするとの口実のもと、脱退

B.中立声明を無視して参戦

1914年世界大戦勃発

日本は日英同盟の誼みを守り、ドイツに宣戦して連合国に参戦

1914年8月21日、米国は日本に対し通牒を発す。

日本は取り合わず。

アメリカも遂に世界大戦に参戦・当初、勝敗の帰趨を逆睹し難かった故

1917年、石井・ランシング協定成立

アメリカからの提案

アメリカは初めて東亜における日本の立場を認める。

(一時的に日本の意を迎えた。)

1923年廃案(ワシントン会議)

1917年・列強がシベリア出兵時、アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の

管理権を握るという強硬なる主張を列強に向かって発す。

結局連合国特別委員会を作り、その委員会が両鉄道を管理す。

 

C.在米日本人の排斥

日露戦争直後から、在米日本人の排斥始まる。

1906年・サンフランシスコの小学校から日本少年排斥

逐次、日本人は排斥に

1907年・日本人経営の商店を襲撃

日本国内世論は激しく沸騰。知識階級の中には日本人が悪いとあげつらう。

日本国政府も或る程度までアメリカの言い分を通す。

1907年・紳士協定を結ぶ。永住目的の渡航禁止

1911年・カルフォルニア州法・日本人の土地所有禁止

1918年・加州排日協会の決議

  日本人の借地権を奪う

写真結婚を禁ず

紳士協定を廃し、米国が自主的に排日法を制定

日本人に永久に帰化権を与えぬ

日本人の出生児に市民権を与えぬ

直接州民投票にて法案通過さす。

1924年・さらに徹底した排日法が制定。

E.ルーズベルトの「賢明なる助言」

日本人排斥は、決して心あるアメリカ政治家の意思でなかった。

大統領ルーズベルト(任期:19011909・死亡:1919年)の息子への手紙

加州特に桑港の馬鹿者共は、向こう見ずに日本人を侮辱している。

惹起さるべき戦争に対して、国民全体が責任を負わねばならぬ。

任期終了時:加州の日本人問題を思えば、他の議会対策は物の数でなかった。

政治的後継者ノックスに向かって「賢明なる助言」を与えた。

 


放送第五日 日本が屈服した日(昭和161218日)

日本の軍事力削減

A.ダニエル海軍計画と八八艦隊計画

東亜においては、遮二無二日本の地位覆しを図る。

アメリカ国内では、没義道なる日本人排斥を実施し、

強大なる海軍の建造に着手(世界第一等を目指す)

マハン海軍大佐が唱え、セオドア・ルーズベルトが実施

強大なる海軍なくして

中国の門戸開放主義

モンロー主義も守れない。

1914814日・パナマ運河の開通(コロンビアからパナマを独立させ)

南米大陸迂回不要(13千を5千海里に)(ハンプトン・ローズ〜メイア)

1916

ダニエル海軍計画またはウイルソン海軍法なる海軍拡張計画実行

1919

太平洋艦隊編成

わが国は、金力で劣るが、造船技術・船台・船渠・港湾設備は凌駕

1907年(明治四十年)・八八艦隊計画の長期目標設定

19198月・フィリッピン・グアム・サモアに海軍施設計画発表

イギリスの海軍拡張を促す。 

B.ワシントン会議での「一石二鳥」

日英が共に海軍力増強に動く。

19211922年:ワシントン会議開催

ロンドン・タイムス主筆ティードの道破

「日米両国の決闘」

第一:日英同盟の破棄(1911年7月13日締結)

(1902年の筈)

第二:日本海軍の主力艦を米英のそれの6割に制限

加藤全権曰く:日本は過去にも将来にも米英と程度を同じうする

一般的海軍力保有の意思を持たず。

1921年四カ国条約

1922年九カ国条約

茲に、セオドア・ルーズベルト以来の、悲願を達成

C.ワシントン会議以降の劣勢

アメリカはワシントン体制に満足しなかった。

1927年6月・ジュネーブ軍縮会議

アメリカ三十代大統領クーリッジの提唱

巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の制限を目標

仏・伊不参加、日米英の意見一致せず不成功

1930年1月・ロンドン軍縮会議

米・英・仏・伊・日の海軍軍備制限に関する国際会議

主力艦について米英各15隻、日9隻

9カ国会議条約の建造中止期間5年間延長

補助艦について米英各10隻、日6.975

日本国内では軍部・右翼・野党が「統帥権干犯」と

浜口雄幸首相狙撃事件

英国が海軍力首座を降りる。

自ら国際連盟を首唱しながら、成立すれば参加せず。

不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具とせずと

列強に約束させておきながら、東洋では、世界一の海軍を保有す。

大西洋では十対十が平和を破ることはないとしながら、

太平洋においては、七対十が平和に脅威と力説。

総じて、無反省且つ飽くなき利己主義より来る矛盾撞着行動

D.敵国に誉めそやされた「ロンドン条約調印」

スチムソンの5月13日上院外交委員会報告

日本海軍の軍事力を凌駕する8年間の製艦計画期間の確保が目的。

巡洋艦7万5千トン→14万3千トン(米)

98千トン→10万トン(日)

日本は海軍拡張論者の猛烈な運動があった時期であり

日本代表は困難な仕事を成し遂げた。

日本代表並びに政府に最大の敬意を払う。

日本代表は国民に向かい会議の成功を語る。

首相は議会で、国防の安全を保証する。

大川周明曰く・日本の覚悟を知らしめる絶好の機会を逃す。

ロンドン会議は、日本現代史に深刻無限の影

 


放送第六日 敵、東より来たれば東条(昭和16年12月19日)

アメリカに開戦を余儀無くさる

A.国民から湧き上がってきた大いなる憂い

第一次世界大戦以来、日本の上下を支配してきた思想

英米の自由主義・資本主義

ロシアの唯物主義・共産主義

日本真個の精神を考え・実践せし人は僅か。力は弱い。

ロンドン会議は多数の国民に、日本的自覚を呼び起こす機縁に。

黒船以来の危機感

傍若無人さに、アメリカの政治家のうちにさえ、戦争誘発を心痛させた。

フィリッピンを日本に占領されぬよう、戦争準備さへ行う。

タフトを東京に立ち寄らせてみると、政府には気概全く無し。

日本政府は、「戦争回避に躍起」。と打電

セオドール・ルーズベルトの愁眉を開かせる。

その十数年後、移民問題の折も、開戦を憂慮。

政府は、依然として、英米に気兼ね。

B.満州事変

1928・張学良は、南京政府及びアメリカの支援のもと、東北地帯の政治的・経済的奪回を開始。

排日機運全満州に

満州における権益は、ポーツマス条約に基づく。

1931年9月18日・柳条溝事件。

時の政府は、欲しなかったが、国民の意向として、満州事変へ。

1932218日・満州国独立宣言

C.国際連盟は旧秩序維持機関

当初スティムソンは、幣原外相に期待(「熱烈なる覚書」)

193112月民政党内閣倒れる。

1932年1月錦州占領・スティムソンの企図は失敗

次に、国際連盟の利用を考える(参加してないに拘わらず)。

1932年春・全米国艦隊の太平洋における大演習・艦隊を留め威圧

ロンドンとジュネーブに圧力

1932年3月12日・国際連盟をして満州国独立不承認決議

11月末リットン報告に基づき、満州返還宣告

1933年2月14日・国際連盟総会にて採択。

国際連盟脱退

 

D.来るべき日が遂に来た

193212

次期大統領・フランクリン・ルーズベルトから外交政策の相談

スティムソンの意見にルーズベルトは、完全一致。

スティムソン政策は、9カ国条約及び不戦条約の尊重

違反行動はすべて不法なる侵略主義と認める。

それを徹底して弾劾

ルーズベルトは、支那の抗戦能力増強を一貫方針とした。

東亜新秩序は、やがて世界新秩序を意味するとした。

来るべき日が遂に来る。