関西蔵前午餐会資料
■概要
現在は「無機材料工学科」と名称やその技術内容も一新しているが、その原形である「窯業科」は東京職工学校時代から、
富国強兵の国是のもと、殖産興業の方針に沿って優秀な技術者のみならず、多くの陶芸家も輩出している。
こう云った時代背景にもに触れながら、 最近惜しくも他界された益子の陶芸家として無形文化財(人間国宝)でもあった島岡達三先輩
(昭16窯)の作陶ぶりをビデオで紹介する。
■講演内容
◆母校窯業科は、島岡達三以外幾多の著名な陶芸家を輩出しているが(下記 第2表)、元来母校は技術者や研究者を育成するのが使命で
あろうが、個人的に志を立て例えば政治家の道を選択したのとは異なり、陶芸家の輩出は母校の方針・即ち教育理念が働いていると考えられ、
これを検証しようと、窯業科の変遷そして包括的に思考するため母校の学科の変遷をも調査してみた(下記
第1表)。
◆第1表から読みとれるのは、明治から昭和初期においては、染織科と窯業科が目立つ存在であったことである。
染織業界に於いては、明治3年に官営製糸業を造り、又日本の生糸輸出量は世界一を占めた記録も残されている。
窯業界の陶磁器は中国明王朝の政情不安時には、オランダ東インド会社の要請に応えて欧州に輸出して王侯貴族から高い評価を受け、
17世紀後期の6〜70年間輸出を続け、その技術は明治維新以降の輸出に繋がる所となった。
◆このような背景にあって、母校も外貨獲得に結びつく染織科や窯業科の技術と人材の育成に重点を置いたことは容易に推測出来る。
◆窯業科は、母校創立当時ドイツ人ワグネル博士によって近代化学の途が開かれたが、美を追究・創作する工業図案科が明治30年代後期
に設置され、又東京美術学校(現芸大)卒業の板谷波山氏を窯業科講師として明治36年に招聘した。
この環境下で学び、後に明治以降の陶芸界二大巨匠と云われる河井寛次郎と浜田庄司が大正初期に卒業した。
一方工業図案科からも、ガラス陶芸で著名な各務鑛三、染織工芸家で型絵染めにより人間国宝に推挙され文化功労賞を受賞した芹沢_介も
同時期に卒業している。
因みに浜田庄司は人間国宝であり文化勲章を授与されている。河井寛次郎は己の心情からなのか何れの賞も辞退している。
◆大正3年方針変更により、工業図案科は東京美術学校に吸収合併となった。
しかし、一旦根付いたDNPは多くの陶芸志望者や陶芸家の子息が入学を志すところとなり、窯業科も色々な名称の特別制度によって門戸を
広げカルキュラムを組んで陶芸家志望者の受け入れを図っていた。(下記 第3表)
◆昭和24年新制大学になってから、こう云った特別制度は取られなくなったが、窯業関連者の師弟の学生の存在や、無給の研究生が教授連
の指導を受けていたことを筆者は見聞している。
◆輩出した先輩陶芸家の作品は、母校百年記念館に収蔵され、時に応じて展示されている。
板谷波山青磁 | 河井寛次郎 辰砂偏壺 | 浜田庄司 柿釉鉄絵青差大鉢 | 辻常陸 波濤 雲龍文大額皿 |
加藤タ 鉄釉金彩蝶文壷 |
村田浩 白彩サルトリイバラ文板 益子 |
◆島岡達三は浜田庄司を師として、昭和29年、栃木県益子に築窯、実家の組紐を利用した縄文象嵌手法で認められ、平成8年人間国宝に推挙
される。塩釉や釉の流し掛けなどに師浜田庄司の手法継承が見られる。残念なことに、平成19年12月11日に逝去された。
◆島岡達三は“民芸派”の作家であり、民芸に若干触れてみたい。
民芸運動は、白樺派である柳宗悦によって大正末期「無名の工人によって造られた日常雑器に美があり、これを民芸という」と提唱された。
これに同調したのが河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉や英人バーナード・リーチなどである。柳は河井、浜田や浅川兄弟と朝鮮、満州、沖縄、
九州や東北を廻り各地の民芸品を発掘し、その収集品は東京駒場の日本民芸館にある。大阪難波の日本工芸館の屋上に、展示されている日本
各地の甕は圧巻である。
島岡達三氏の作品を下記に紹介する。 | ||
地釉縄文象嵌急須 |
初窯窯変象嵌縄文花入 |
|
島岡達三の作品 |
塩釉象嵌文大皿 |
◆窯業科は昭和45年無機材料工学科と改称された頃から研究対象も一変し、先端技術即ち電子・医療・航空・宇宙工学などの材料研究にウエイト
が移り、何時しか窯業の文字自体も同窓会の名称にのみ残されるだけになった。
しかし、建学時の国是に沿う指向を理解すれば、旧人としての悲嘆はない。
◆歴史ある窯業同窓会は昨年関西支部を立ち上げ、技術や情報の交流の第一歩を踏みだした。最近の工業製品は複雑化・複合化していてその
周辺技術なしでは研究は進まない。関西窯業同窓会も単独ではなく蔵前工業会関西5支部の中にあって、5支部プラスワンの存在を目指す
目論見であって、宜しく蔵前工業会員のご尽力ご指導を頂くよう願うところである。
第1表 母校と窯業科の変遷略史
年号 |
東工大の変遷 |
窯業科の変遷 |
輩出陶芸家の卒業 |
1881 M14 |
東京職工学校設立 化学&機械工芸科を置く |
|
|
M19 |
|
陶器玻璃工科を設置 |
|
1890 M23 |
東京工業学校と改称 化学工芸部(染織、陶器玻璃、応用化学) 機械工芸部(機械、電気工業) |
|
|
M27 |
|
窯業科と改称 |
|
1896 M29 |
工芸部名称を廃止 窯業、応用化学、機械、染織、電気 の各科とする |
|
|
M32 |
工業図案科の設置 |
|
|
1901 M34 |
東京高等工業学校と改称
|
|
|
M36 |
|
板谷波山嘱託(〜T2) |
|
1914 T03 |
工業図案科は東京美術学校に吸収合併 |
|
河井寛次郎 |
T04 |
|
|
各務鑛三(工業図案科) |
1916 T05 |
|
|
浜田庄司 芦沢_介(工業図案科) |
1929 S04 |
東京工業大学に昇格 染料化学、紡織、窯業、応用化学、電気化学、機械工学、電気工学、建築の8科 と数学、物理、物理化学、分析化学の4教室 |
|
|
S05 |
|
|
辻常陸 |
S16 |
|
|
島岡達三 |
S23 |
|
|
加藤タ 田山精一 |
S24 |
新制大学第1回生入学 |
|
|
S42 |
|
|
村田浩 |
S45 |
|
無機材料工学科と改称 |
|
第2表 母校輩出の主な陶芸家
卒業年次/学科 |
出身地/作陶地 |
備考 |
||||||
板谷 波山 |
嘱託(M36〜T02) |
1872~1963 |
茨城/東京田端 |
東京美校彫刻科卒 金沢工業校に奉職中陶芸を修得 1963文化勲章 |
||||
河井寛次郎 |
T04 窯業科 |
1890~1966 |
島根/京都鐘渓窯 |
京都陶磁器試験所で釉薬の研究、1955文化勲章辞退、人間国宝・芸術界会員辞退 河井寛次郎記念館:京都五条鐘鋳町 |
||||
各務 鑛三 |
T05 工業図案科 |
1896~1985 |
岐阜/東京滝野川 |
独留学、ガラス工芸のグラヴィール技法修得 巴里博グランプリ受賞、各務クリスタル社創設 各務鑛三記念館:茨城龍ヶ崎 |
||||
浜田 庄司 |
T06 窯業科 |
1894~1978 |
川崎溝口/益子 |
英留学、栃木県益子で作陶 1955人間国宝 1968文化勲章 東洋陶磁美術館で没後30年特別展 ~3/22 |
||||
芹沢 _介 |
T06 工業図案科 |
1895~1984 |
静岡/東京 |
染織工芸家 型絵染め 1958人間国宝 1983文化功労賞 |
||||
辻 常陸 |
S05 窯業科 |
1904~2008 |
有田/有田 |
14代辻常陸 皇室御用窯元 |
||||
島岡 達三 |
S16 窯業科 |
1919~2007 |
東京/益子 |
浜田庄司に師事 1954益子に築窯 1966人間国宝 |
||||
加藤 タ |
S23 専門部 |
|
瀬戸/瀬戸 |
愛知県瀬戸で作陶 |
||||
田山 精一 |
S23 専門部 |
|
笠間/笠間 |
茨城県笠間で作陶 |
||||
村田 浩 |
S42 応用化学科 |
|
/益子 |
栃木県益子で作陶 |
|
第3表
窯業学科名の変遷と学部以外の養成・教育部門
学科名 | 卒業年次ベースで | 選科 | 陶器 | 工業教員速成科 | 工業技術院養成所 | 専門部養成所 | |
東京職工学校化学工芸部陶器玻璃科 | M19〜 | ○ | |||||
東京工業学校化学工芸部陶器玻璃科 | M23〜 | ||||||
東京工業学校窯業科 | M27〜 | ○ | ○ | ○ | |||
東京高等工業学校窯業科 | M34〜 | ||||||
東京工業大学窯業科 | S07〜 | ○ | ○ | ||||
東京工業大学窯業学コース | S23 | ○ | |||||
東京工業大学無機材料化学コース | S24〜 | ○ | |||||
東京工業大学無機材料化学課程 | S27 | ||||||
東京工業大学化学工学第5課程 | S28 | ○ | |||||
東京工業大学化学工学課程<新制> | S28〜 | ||||||
東京工業大学応用化学科 | S42〜 | ||||||
東京工業大学無機材料工学科 | S45〜 |
「作品の画像は、東工大百年記念館の許諾により掲載するものです。」