戦後の中国での学生生活
(大連生まれの日本人が体験したこと)

 
[井上ご夫妻]

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I.井上 照代 女史(S34 物理)の体験

(1)大連
大連は日露戦争の後日本の租借地となった。終戦迄の大連の教育は日本同様、文部省の教科書で行われていた。
昭和
2089日、ソ連が旧満州の国境を越えて進攻してきて大連も大混乱となった。
日本人の学校は
1946年秋、引揚げが始まったことで総て閉校。
大連には約
22万の日本人が居たが、ソ連、中国側の要請でおよそ8000人が残留して19473月引揚げを終る。

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大連中央広場
大広場

市役所

大連病院

満鉄本社

警察署

当時の正金銀行

大和ホテル

(2)大連市日僑学校
残留した日本人(主として技術者、医者、大学教授など)の要求で子弟の学校の設立が実現、
これが「日僑学校」といわれる学校である。
小学校
6年、中学5年制で19472月に発足、500名の生徒で男女共学であった。残留した教師、親が教育に当たった。
1948
年、1949年の引揚げで人数が減り、学制は六三三制となって、私の高校卒業時はクラス5名であった。
195311月閉校。

(3)中国の大学への進学
1949年新中国成立。日僑学校卒業生は次々中国の大学へ進学した。
1952年の初めての全国統一試験で北京大学には3人合格、大連から北京へ赴く。
この時期、大学生は「全寮制で学費、寮費、食費は無料」であり、生活困難な人には奨学金が出ていた。
受験に関しても学費その他に関しても日本人であるからと言う差別は全くなかった。
しかし、「卒業後の就職は国の統一分配に従う事」を求められた。
当時中国では人を階級的に見るという教育で、敗戦国民であろうと自分達の国の建設に携わっている者は
国際友人」と呼ばれ、友好的であった。

(4)西安での生活
1953年、引揚げが始まると言うので北京から大連へ戻ったが、結局大連からの引揚げは中止となり、大連の日本人は
中国の他の地方に分散して送られ、そこで又仕事をすることになる。私の親の行った先は西安である。
その他、重慶、武漢、貴陽、承徳などいろいろな所へ日本人は移動させられた。
西安では西北大学に編入を認められ一年余学校の寮で生活をした。
ソ連一辺倒の時代で、教育で教科書はソ連のものを翻訳したものが多かった。
毛沢東時代の学生は一日も早く国の力になりたいと非常に熱心に体を鍛えて勉学に励んでいた。
私はこれまでの生活との差に戸惑った事もあったが、友人達は大変親切であり、その生活に溶け込んだ。
この時の友情は文化大革命などで中断したにもかかわらず今尚続いていて、西安にはその後二回クラス会に出かけ楽しい時を持った。

(5)帰国
19553月、漸く引揚げることが出来た。
天津より乗船、
329日舞鶴に上陸。東京に着いて早速東工大の編入試験を受け3回目の一年生となる。

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II.井上 睦夫 氏(照代 女史のご夫君)の体験

(1)経歴

(2)当時の中国の大学の雰囲気、学生たちの意識
学生たちの学習意欲はきわめて高かった。10年後日本は負けるという実感。
小組単位の学習、下校後の宿舎での自習、助教授、講師の対応
卒業後の就職:国家による統一分配に抵抗なく従う。
新中国建設に一身を捧げる意欲
に燃えていた。
日本人に対する態度:戦勝国民の誇りに裏づけられた抱擁力のようなものがあった。

しかし数十年後、戦敗国の日本がなぜ世界トップクラスの経済大国に成長したのか?
これは最近の中国人にとって大きな謎?    

3)合弁会社の中国人技術スタッフの言葉
日本での1ヶ月の実習でその謎が解けた。それは日本人の働く姿勢にある。 
すなわち自分の欠点、失敗を認めることを恐れず、その原因を追究し克服しようとする前向きの姿勢。
もし我々中国人も同じような努力をすれば、近い将来必ず日本を追い抜くことが可能だ。
なぜなら中国は国土も広い、人口も資源も多い。

(4)重慶の印象
満洲と四川の気候風土の違い 呉牛於月喘、蜀犬於日吼
生活習慣、言葉(漢字の発音)、食文化、稲作、田植え、緑多き風景、正月の餅つき
              → 日本の稲作文化の源流という感を深くした。
重慶大学キャンバス 嘉陵江河畔の緑に包まれた広いキャンバス

5)長江文明
中国文明は従来「中原文化一元論史観」すなわち黄河文明が唯一の起源であるとい考え方があった。
その後長江流域に多くの遺跡が発見されるに及んで、長江文明起源説が主流となっている。

世界の4大文明:エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明は畑作牧畜型文明でいわゆる動物文明、
力と闘争の文明
である。

長江文明、縄文文明は、稲作漁労文明で、いわゆる植物文明、美と慈悲の文明である。

(参考文献)
「森と文明の旅」長江文明の探求  稲盛和夫 監修 梅原 猛、安田 喜憲 共著
                    2004. 8 発行   新思索社