平成16年5月午餐会

日時: 平成16年5月11日(火) 12:00-14:00
場所: 中央電気倶楽部317号室
講話: 近世大坂の銅吹所 −幕府高官の視察を中心に−
講師: 今井 典子氏(住友史料館副館長)

講師の紹介

講師略歴

  ・ 財団法人三井文庫(東京)勤務を経て、昭和53年住友修史室(神戸)に移る
  ・ 昭和62年住友修史室が京都市に移転、住友史料館と名称変更
  ・ 平成13年副館長に就任、現在に至る

専門

  ・ 日本近世史、とくに住友銅吹所の研究

講話の要旨

  ・ 江戸時代、17世紀後半以降、銅は長崎貿易の輸出品として、鎖国制度を支える商品

  ・ 海外の販路、用途

  ・ 幕府の「監督官庁」役人は度々視察、ほかに物見遊山に近い視察も

  ・ 貿易改革など重大な政策施行の時期は老中も視察

  ・ 南蛮吹の意義

史料

(以下の内容は配付資料より抜粋) 写真をクリックすると大きくなります


・ 右図:  住友銅吹所および本家図(1861)[住友史料館蔵「御本家様御吹所様惣絵図」図録『よみがえる銅』より]

史料1: 小葉田淳『日本鉱山史の研究』(岩波書店 1968)6〜7p

 ヨーロッパの学者の研究によると、16−17世紀の世界の金・銀の1カ年産出高を次のように計算している。
 1561-1580 299,500kg, 1581-1600 418,900kg,
  1601-1620 422,900kg, 1621-1640 393,600kg

(中略) 16世紀末期に生野銀山から秀吉に納めた運上銀は1カ年2万キログラムにおよび、17世紀初期に石見銀山の1間歩から家康へ納めた運上銀は1万2000キログラムに達し、ほぼ同時代に佐渡相川鉱山の産銀額は1カ年6万−9万キログラムはあったと推定される。17世紀初期には、銀の輸出は1カ年20万キログラムに達したのではあるまいか。

(中略) 幕府は巨額の銀の海外流出を阻止するため、銀の輸出に統制を加え、また貿易額を制限したが、同時に銅の輸出が増加したので、金銀の流失を防止し得た。銅の輸出は寛文以来いちじるしく増加し、元禄10(1697)年890万斤、同11年900万斤を超えた。(中略)元禄10年ころ、産銅高は(中略)精銅 で1000万斤ほどかと思われる。しかし当時としては世界で最高のものであった。

史料2: 山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』(吉川弘文館 1964)51p

 銅の輸出は、このころ(引用者注−1684年頃)すこぶる伸びてきていた。唐船の輸出量は、寛文4年(1664)には30万斤に満たなかったが、寛文8年の禁輸(翌9年解除された。 引用者注−8・9年とも結局輸出された)を経て、寛文12年には100万斤を越え、貞享元年には260万斤を突破した。蘭船の輸出量は明暦3年(1657)以前には100万斤をこしたことがなく(明暦3年 141万斤)、寛文4年以前に200万斤をこえたことがなかったが(寛文4年 244万200斤)、延宝から貞享初年へかけて大幅に伸びていった。延宝8年(1680)には268万5200斤を買渡っている。

史料3: 山脇悌二郎『長崎のオランダ商館』(中公新書579 1980)110p

銅はインドでは、多様多種の家庭用具はもとより、屋根板、寺院の装飾、防虫網戸用の銅線製造などにまで広く用いられたが、造船用の船底包板にされることも多く、コロマンデルではとくに銅銭の鋳造に大いに需要があった。(中略)銅ブームに乗った会社は、バタフィアに来るシナ人から日本銅を買い、シャムでも日本銅を買い占めた(後略)

史料4: 島田竜登 『オランダ東インド会社のアジア間貿易』(『歴史評論』No.644 2003)5,14p

 オランダ東インド会社の域内貿易のうち、そのルートや規模の最大のものは、日本、南アジア、大陸部東南アジアを結ぶ、いわば三角貿易にあった。日本からは、銀、のちには、金、銅が会社に対して輸出される。それらの貴金属や銅といった貨幣素材の多くは、いったん南アジア、とりわけ綿業地帯であったベンガル、コロマンデル、グジャラートの各地域に送られ、輸出向け綿織物の購入資本にあてられた。一方、この綿織物の一部は、シャムやカンボジアといった大陸部東南アジアの交易都市に送られ、日本向け商品の購入の資金とされたのである。大陸部東南アジアからは、香木や染料であった蘇木、黒うるし、鹿皮といった森林資源、さらにシャムからは海洋資源である鮫皮などが日本向け商品として輸出された。以上の三角貿易から、オランダ東インド会社は利益を得て、それを銀や綿織物の形で、島嶼部東南アジアにおける、本国向け胡椒・香料貿易の資本としたのであった。

(中略)オランダ東インド会社の日本銅の取扱高は、18世紀はじめには減少、18世紀中葉では年500トン強に保たれていたものの、18世紀の第4四半期には再度減少している。一方、イギリス東インド会社のヨーロッパ銅の輸出は、1729年末に開始された。すでに、60年代には数量的に日本銅と拮抗し、以後は、日本銅をはるかに凌ぐようになった。

史料5: 任鴻章『近世日本と日中貿易』(六興出版 1988)230〜234p

 雲南の各鉱山現場の産出最高年は1766(乾隆31)年で、産量は1467万4481斤に達したといわれる。(中略)テン銅産出の発展と著しい対象をなしたのは、日本の銅産出がいっそうに減少したことである。1736(元文元、乾隆元)年、江戸幕府は銅の輸出を制御するために、既に許されていた清船数をさらに5艘減らして、毎年25艘と決めた。

(中略)この資料はテン銅は生産の発展につれて、その国内市場も速やかに広がっていることを裏づけているばかりでなく、それと同時に、清朝の最高支配者はシン銅がおおいに増えた場合でも、洋銅(引用者注、外国銅=日本銅のこと)の輸入に深い関心を、持っていたことを示している。長崎貿易における清朝の官局と民局とが並列した弁銅体制は、このようにして幕末まで保ち続けたのである。

史料6: 今井典子稿『近世住友銅吹所幕府高官見分応接の儀礼について(その4)−老中の見分−』(『泉屋博古館紀要』第19巻 2003)1,2,3,7p

 老中の住友銅吹所見分は、寛延3年(1750)の本多伯耆守(正珍)を嚆矢として、文久3年(1863)の小笠原図書頭(長行)まで計14回を数える。老中が大坂を巡見する場合の立入り先として住友は定例化していた。住友以外では幕府の施設か神社仏閣にほぼ限られており、老中の巡見立入りは住友の大坂における社会的地位を示すものである。住友にとって老中の見分を受けることは最高の栄誉であり、礼を尽くして応接した。

(中略)城代の住友銅吹所見分は40回(40人)あり、うち26人がのち老中に就任した。これに住友を見分した老中14人を加えると40人である。老中は享保13年就任の酒井忠音から文久2年就任の小笠原長行まで再任を除いて実人数73人あり、そのうちの40人が見分したのである。その結果幕閣にはほとんど常に住友銅吹所を知っている老中がいることになり、1人もいない期間はごくわずか(元文元〜寛保元年、嘉永2年)である。逆にいうと、幕閣に大坂城代や大坂巡見の経験者がいなくなると、老中が上京のついでに大坂へ回ったといえるようである。

 (中略)老中の住友銅吹所の見分が初めて行われた寛延3年(1750)・・・(長崎貿易)改革の眼目のひとつが輸出銅買上げ値段の引下げであった。・・・幕府は、老中の住友銅吹所訪問によって輸出銅の製造状況の確認かたがた、「御威光」を見せつけて別子銅の買上げ値段の引下げを納得させ、訪問によって大きな栄誉と格式を与えられた住友の影響力を利用して、輸出銅買上げ値段の円滑な引下げをはかったものと考えられる。(後略)

史料7: 今井典子稿『近世住友銅吹所幕府高官見分応接の儀礼について(その1)−大坂城代の見分を中心に−』(『泉屋博古館紀要』第15巻   1998)89pを改変

住友銅吹所見分件数

.年次  老中  城代 町奉行 長崎奉行勘定奉行蘭館長 その他   計
宝永6 〜寛保3   - 4 - - - 4 -  8
延享元〜宝暦3   2 2 2 3 1 8 1 19
宝暦4 〜明和元  - 5 4 4 - 6 3 22
明和2 〜安永5   - 1 4 4 - 6 1 16
安永7 〜天明7   - 4 4 3 - 8 2 21
天明8 〜寛政9   3 1 310 2 4 9 32
寛政10〜文化4   3 5 412 - 116 41
文化5 〜文化14  1 2 9 6 - -24 42
文政元〜文政10  2 3 2 5 - 329 44
文政11〜天保8   - 4 7 3 - 228 44
天保9 〜弘化4   - 3 6 5 - 239 55
嘉永元〜安政4   2 2 8 8 2 136 59
安政5 〜慶應3   1 4 4 3 6 133 52
計  144057661146221 455
注1) 件数は主賓としての場合のみ(例えば町奉行が老中や城代に同行する場合は数えない)。
注2) 見分のない年:宝永7〜享保12、同14、同15、同17〜元文3、寛保2、宝暦7、明和6、安永2、同6
注3) 宝永6〜寛保3は7年分、その後は各10年分である。

史料8: 今井典子稿『南蛮吹の開発と意義に関する覚書』(『日本鉱業史研究』第46号 2003)39p

 南蛮吹は慶長年間(1596〜1615)、蘇我理右衛門(1572〜1636)が開発した。

(中略)蘇我理右衛門は河内国五条村(現、東大阪市)で生まれ、3歳のとき戦乱を避けて和泉国大鳥へ疎開した。銅吹き修行の地は恐らく堺であろうが、19歳で京都で開業した。豊臣秀吉の大仏造営事業が開始され、それに何らかの形で参画することは当時の種々の職人の願望であり、理右衛門もその1人であった。大仏は当初計画の銅製から漆膠製に変更・完成されたが、大地震で倒壊し、まもなく秀吉も没した。意志をついだ秀頼による再建大仏は銅製で途中焼失し完成までに13年かかった。この間に理右衛門は銅吹屋として発展し、大仏用の銅を供給するまでになった。そして豊臣家周辺でヨーロッパの銀銅吹分け技術の噂を耳にしたものと考えられる。

 銀の精錬法で鉱石に鉛を吹合せる灰吹は、天文2年(1533)石見銀山で開始され、広く普及して16世紀末から17世紀初期の銀の大増産を支えた。銀銅吹分けに鉛を使用する方法はビリングッチョ「ピロテクニア」(1540年刊)やアグリコラ「デ・レ・メタリカ」(1556年刊)に絵入りで載っており、知識人であれば特に技術者でなくても、このような技術があると紹介することは可能であった。日本への伝播もそのようにして行われた可能性が高い。

 16世紀後半から17世紀前半、毎年来航するポルトガル船の船長(商人・軍人・外交官を兼ねた存在)は知識水準も相当高く、権力者に接近した。蘇我理右衛門は京都方広寺の大仏に銅を供給した銅吹屋であり、豊臣家周辺からヨーロッパの銀銅吹分けの知識を吸収したという推測は十分成り立つ。

(中略) 理右衛門の実子友以(1607〜1662、住友家2代)の時代、輸出銅は次第に大坂の銅屋(すでに南蛮吹技術を共有)が調整する棹銅に限られるようになり、この仲間が銅の輸出を独占した。独占の根拠が南蛮吹であった。

 

住友銅吹所の精錬工程: 『鼓銅図録』(住友史料館所蔵本)の一部(大阪歴史博物館発行2003「よみがえる銅(あかがね)−南蛮吹きと住友銅吹所−」より)


・住友銅吹所および本家図にある右側の銅鉛吹合せ工程および吹分け工程


・住友銅吹所および本家図にある銀鉛吹分け工程と中程にある間吹工程


・住友銅吹所および本家図にある左側の棹吹(銅の鋳込工程)および淘汰(銅屑回収工程)

午餐会幹事の感想

 江戸幕府高官の住友銅吹所への見分のお話を伺って、昔、現役時代に多くの外国人を製鉄所見学に案内したことを想い出しました。ビジネスとして真剣に見学する顧客もあれば、海外旅行のついでに物見遊山に見学にきた外人もいました。目的はともあれ、今も昔も工場見学に多くの人達が興味を持っていることがわかりました。また、日本の冶金学が世界をリードしている理由は、江戸時代から蘇我理右衛門のような技術開発に積極的姿勢の先達がおられたことによるものと、改めて教えていただきました。今井講師には、お忙しいところ当会にてご講演いただき誠にありがとうございます。ここに厚く御礼を申し上げますと共に、ますますご研究に邁進されますことを祈念します。

(文責:奈良)


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