日時: | 平成16年2月3日(火) 12:00-14:00 |
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場所: | 中央電気倶楽部317号室 |
講話: | アミューズメントタウン池田と呉服(くれは)座 |
講師: | 田中 晋作氏(文学博士−池田歴史民俗資料館副館長) |
講師略歴
・ 関西大学大学院博士課程修了 博士(文学)
・ 専攻 日本考古学(古墳時代の軍事・武器研究)
・ 奈良県立橿原考古学研究所共同研究員
・ 池田市立歴史民俗資料館副館長
主要著書
・ 共著『継体大王とその時代』(和泉書院)2000
・ 単著『百舌鳥・古市古墳群の研究』(学生社)2001
・ 共著『古代葛城とヤマト政権』(学生社)2003
・ 池田市内の呉服座の想定位置
現存する江戸時代様式の芝居小屋
呉服座は、江戸時代の様式を残す数少ない芝居小屋で、昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定されている。現在は、博物館明治村に移設されているが、劇場建築の遺構としては香川県琴平町にある金丸座に次ぐものである。建物は、木造二階建、切妻造り、屋根は移設する前は瓦葺きであったが、建設当時は杉皮葺き屋根であったようで、現在は原型に復元されている。正面間口は17.9m、奥行き25.7mの建物であるが、舞台は間口10m、奥行き7.6mで、花道、廻舞台もある本格的劇場形式を備えている。
呉服座の歴史
呉服座は、池田市西本町呉服(くれは)橋の南、猪名川の堤に沿って位置していたが、創設当時の史料がないために、いつごろ建てられたか確認されていない。明治6年(1873)の地租改正の時の村絵図にはその存在がないので、それ以降に建設されたと思われる。明治20年(1887)頃と推定される「西之口戎(えびす)座」と書かれた割引券が存在したことから、呉服座は元は戎座ではないかという説がある。呉服座の所在したあたりは、江戸時代以降、池田の西の入口という意味で「西之口」といわれていたからである。
池田は明治初期は池田村といわれていた。明治20年(1887)ころの地図を見ると大阪から池田まで、岡町(豊中市)を除いて人の集まる町場といえる場所がない。池田は、北摂の十字路と呼ばれ、この地で多くの街道が交差し、古くから人や物が盛んに行き交う町であった。呉服座のあった「西之口」は、箕面の勝尾寺と宝塚の中山寺を結ぶ「巡礼道」と大阪と能勢を結ぶ「能勢街道」の辻(交差点)となっており、芝居小屋が生まれるもっとも適した場所のひとつである。その後の「池田町と川西町パノラマ地図」(昭和5年(1930))には、呉服座の他に川西座、明治座、池田座と池田クラブの名前は載っており、近郷近在の人達が集まる娯楽の中心であった。この賑わいは、映画の隆盛、テレビの普及により徐々に衰退の道を辿り、呉服座も昭和44年(1969)5月の興行を最後にその幕を閉じることになった。
呉服座にかかった興行を拾ってみると、その分野は多岐に渡る。歌舞伎や浄瑠璃といった古典芸能に始まり、壮士(書生)芝居、新派、女剣劇や社会劇等の現代物、さらに、浪曲、漫才、歌謡ショー、演説会と続く。出演者には後に世間を風靡した大物役者や芸能人を並べることができる。
その中には、和事で有名な関西歌舞伎の二代目中村雁次郎(当時は扇雀)や映画俳優の長谷川一夫(当時は歌舞伎俳優の林長丸)。ラジオでも有名であった浪曲師の桃中軒雲右衛門、吉田奈良丸や広沢虎造。講談の神田伯龍、奇術の松旭斎天勝、喜劇俳優の志賀廼家淡海、漫才師の砂川捨丸、エンタツアチャコなど。新しいところでは、渋谷天外、浪花千栄子、藤山寛美、不二洋子、南都雄二、ミヤコ蝶々、日佐丸ラッパ、宮城千賀子、西条凡児、A助・B助と続く。「オッペケペー」で有名になった川上音次郎も来たことになっているが定かでない。政治集会にも使われたようで、尾崎行雄や荒畑寒村の名がある。
しかしながら、これらの有名人が本当に来たのかどうか、記録になるものが少なく、あまりはっきりしていない。興行という仕事は、松竹のような企業の場合は別として、記録にとどめることの少ない文化といえる。それでも、今でも残っている呉服座の昭和28年(1953)中に行った興行記録を見ると、1月から12月まで30興行をこなしているが、その中に、現在、名前のわかっている劇団や芸人はほとんどいない。どうやら、地方巡業をしていた旅芸人が呉服座に看板を掛けていたのではないか。あるいは、駆け出し時代に呉服座にやってきたのではないかと想像することができる。それでも、この興行内容を調べると、1興行ほぼ10日平均で年間延べ350日間劇場を開いていて、入場者総数は約43,300人になる。さらに、350人程度の定員に対して、盛況な時は1日千人もつめかけた話が残っている。1年のうちで、もっとも賑わいを見せるのは5月頃で、その時の芝居を「豆(まめ)芝居」といった。ちょうど、田植え前の農閑期で、ソラ豆がでまわることから、ソラ豆入りの弁当を持参して観劇したことに由来している。
「呉服(ごふく)座」と書いて「くれは座」というのかという質問には、次のように考えられる。古くから池田に住んでいる住民は「ごふく座」と呼んでいる。それから察するに、初めは「ごふく座」であったのかもしれない。その証拠のひとつに、呉服座の一文字幕中央の紋は、五つのお多福(ごふく)を円形に配列して、中央に「座」の字を入れたデザインである。それでは、何故「くれは座」になったかというと、池田の地が古くは「呉庭荘(くれはのしょう)」と呼ばれていたことに由来する。
池田市としては、今では叶えられない事であるが、呉服座を博物館明治村から持って帰りたい。これからの都市は独自の「顔」がなくてはならないが、池田市には、そのような場所として五月山公園があるが、後世に残すような建造物がないからである。近年多くの町で「まちの顔」が急速に失われつつある。かつてのアミューズメントタウン池田を象徴した呉服座の廃絶は、時代の流れとはいえ、いまさらながら惜しまれることである。
講演内容は、ここに紹介したような文字から得られる知識ばかりでなく、マイクから伝わってくる講師のお話にはいろいろのニュアンスがこめられており、芸能文化の深さを教えていただいたように思います。技術系の人間には、呉服座に劇場建築としての興味がありましたが、今回の講演から、劇場建築の中で繰り広げられた興行の方にもっと関心を示す必要があるのではないかと思いました。
(文責:奈良)